銀杏の徒銷な備忘録

御勧め、趣味、考察などをだらだら書いてます。何かの役に立ちますように。。

「死刑反対派は加害者の味方か被害者の味方か」

どうも、銀杏でございます。

 

今回は、最近なにかと問題になっている人権問題の中から、死刑・法について語っていきたいと思います。

 

タイトルにもある通り、「死刑反対派は加害者の味方か被害者の味方か」を軸に話して行きます。

 

 

では参りましょう。

 

死刑反対派ー死刑は人権を無視しているか?

 

日本国憲法には、3つの柱がありますよね。

 

一つ、国民主権

 

二つ、平和主義

 

三つ、基本的人権の尊重

 

とされています。

 

わっしは法律の専門家ではないので、あれなんですが、簡単に言えば、法の下ではこの三つは保障するよ。という認識で間違ってないと思います。

 

法の下と言うことで、法は国民を包括している。

 

しかし、日本に生まれたすべての人間ということではなく、あくまで戸籍があるかないかでの判断になります。

 

つまり、皇室の方々や出生を届け出る前の赤子などは、人権がないということです。(形式上)

 

なので、中絶などは人道的か否かや、殺人だのの議論は、人権がないから成り立たないとすることが多いのではないかと思います。

 

人権があるかないか、それは法律や憲法の定めるところであり、国家という枠組みに収まっている以上は、仕方のない話ですよね。

 

しかし、日本は国民主権があるため、国民の代表として国会議員を選出し、法律を変えたりすることも出来る訳ですね。

 

そうした中、死刑が人権侵害に当たるか否かの論争は、未だ正解はない。

 

世界が死刑廃止の流れになっていようが、それはイコール正解ではないということです。

 

国家は自由に制度や法律を決め、国土の上に国民と共にあります。

 

世界という枠組みで、人種や文化などを超えてメタ的な論理や道徳の適用は難しいということです。

 

具体的に言えば、欧州は昔からこうしたグローバルスタンダードを生み出す源泉となっている嫌いがあります。

 

今、日本はその流れに押されてこうした議論が起こっています。

 

世界で人権違反としても、日本で合法ならば何ら問題はない。

 

人権の考え方は国それぞれで考えるべきである。

 

なので、死刑は人権侵害にあたるかと聞かれれば、死刑は人権侵害にあたるという見方もあれば、人権侵害に当たらないという見方もある。というのが答えで、どちらか一方が正解なんて言うのはあり得ない話なのかなと思います。

 

死刑反対派あくまで第三者意見ではないか?

 

さて、死刑反対派について考えていきましょうか。

 

彼らの主張は、幾ら大罪を犯したからと言って、国家が生殺与奪を握るというのは人権侵害ではないか。

 

こんな感じの主張です。

 

成るほど、確かに。

 

また、加害者遺族の気持ちを尊重するという意見もありますね。

 

更に、加害者にも更生の余地があるとか。これは少年法の議論にも上がっていますよね。

 

こうしたどう考えても希望的観測で、能天気ともいえる意見が、彼らの意見です。

 

犯罪者が再犯する確率が、犯罪を犯していない人間が犯罪を犯す割合よりも高ければ、それはその人間が危険人物扱いされても仕方ないですよね。

 

そんな彼らに慈悲を与えようと躍起になっているのです。

 

これらの考え方って、当事者意識があまりにも低いと思いませんか?

 

仮に自分の家族を殺されても、のうのうと殺人者が生きていく事を想像して、それでも死刑は反対だというのなら大いに結構です。

 

しかしながら、死刑反対を大きく掲げていた人物が、その後妻を殺され、死刑を求刑したという話があります。

 

ja.wikipedia.org

 

実際、死刑の反対を叫んで説得力があるのって、被害者が言う場合だけだと思うんです。

 

だって、

 

それ以外って、蚊帳の外、いわば対岸の火事を見ながら、消せや消さぬや騒いでいるだけなんですから。

 

実際の死刑反対派は、そうした人間が多いのではないかなと思います。

 

理想と現実のギャップを埋められていない理想主義者の集まりでしょう。

 

死刑にしたら、勿体ないから臓器を切り売りすべきだ。とか、血を全部抜いて一人でも多くの命を救うべきだとか、死ぬまで過酷な労働を課すとか、色々あると思うんですよ。

 

でも、彼らが目指すは飽くまで理想的で人道的な結末。

 

飽くまで、「被害者の気持ちも分かるけどさ~、だからって加害者を殺しても良い訳~? あり得なくな~い?」というスタンスを崩しません。

 

感情的損失のみを考慮し、人が死んだ、などという物質的な損失などは考慮しないのです。

 

更に根拠は飽くまで理想的な予測に基づくもの。根拠も何もない。

 

あり得ない。加害者救済をすると、被害者は必ず報われない。

 

被害者が更に、殊更に被害を受ける格好になる。

 

加害者は、死刑を宣告されるような非人道的な行為を行ったにも関わらず、救っていただけるのだ。

 

なんとまぁ素敵な加害者保護の国日本。とならない為にも、きちんと考えなくてはなりません。

 

当事者意識を持たずにいつまでも蚊帳の外からモノを考えて希望的観測の下モノを言っていると、いざ当事者となったときに、自己矛盾を孕むことになります。

 

死刑反対論者のひどいところは、被害者になったとき別に死刑支持者になったところで、なんのダメージもないというところです。

 

だって、身内が殺されるとかなんとかされているのだから、彼らの意見が180度翻ったところで、それは責められたものではないからです。

 

なんと責任のないことでしょう。

 

これを正しいとすることはわっしにはできません。

 

「だって、こんな思いを被害者がしているとは思わなかった。今までの自分はどうかしていた」

 

こういうだけでお仕舞です。 楽でいいですね。

 

なぜそこまで死刑を支持しているの?

 

わっしは、死刑を支持しているわけではありません。

 

しかしながら、死刑を課されるような人間を有効活用するのって難しいし、生かしておいても税金がかかる。

 

なら殺してしまうのが早いじゃないですか。誰も困りませんよ。

 

日本は罪刑法定主義を取っているので、遡及して犯罪とされることはないんです。

 

つまり、死刑囚たちは、自分が死刑になることを前提として罪を犯していると考えられるんですね。

 

もし違っても、人を殺した場合は死刑になる場合がある。火事を起こした場合は死刑になる場合があるというのは周知の事実なわけです。

 

あとで「死刑になると思わなかった」とかって言われても、意味が分かりませんよね。

 

死刑反対論者は、あくまで加害者の人権を守りたがります。

 

しかし、被害者をそれで貶めようとはあまり思っていないのが、怖いところです。

 

構図的には被害者の敵になるのに、彼らは飽くまで被害者の味方なだけで、誰かの敵になるという話は頭にないのです。

 

被害者の味方は法律や司法です。しかし、加害者の敵ではありません。法律などは弱者を守るためにあり、強者の排斥の機能はありません。

 

こうした対立構造によって二分論的な構造を取っている場合が多いですが、二分論だけでは語れないと思います。

 

なぜなら、死刑反対というのも色々あるはずだし、その対象は国民か被害者か司法かと色々ありますよね。

 

死刑容認派も、被害者の感情的に殺したほうがいいのか、消去法的にそれしかないとしているのかなど、色々あると思います。

 

マスコミは死刑容認vs死刑反対の対立構造を立てて扇動していますが、こうしたデリケートな問題は0か1かのような極端な論調では解決しえないと思います。

 

マスメディアの煽り立てるだけ煽り立てて後は知らないみたいなスタンスは昔から変わりませんね。

 

当事者意識を持つには?

 

この世には思いもしないおぞましい犯罪者がいます。

 

そんな彼らの起こした事件を調べたり、被害者のその後まで追ってみると、人間には共感するという感情があるので、当事者意識を間接的に持つ事が出来るはずです。

 

わっしが今回有名な猟奇的・凄惨・残酷な事件を紹介していくので、もしよければ読んで行ってください。

 

中には涙を流してしまうほどに残酷で、吐き気を催す程に凄惨で、行き場のない怒りが沸いてくるほどに猟奇的なものもあります。

 

しかし、もし貴方が死刑反対か死刑容認かに関わらず、死刑や人権について一定の意見があるのなら、こうした事件について当事者意識を持つことは無駄でないと思います。

 

では、知っている事件や、有名な事件もあるかと思いますが、リンクと概要を列挙します。

 

ja.wikipedia.org

 

新潟少女監禁事件(にいがたしょうじょかんきんじけん)とは、1990年11月13日新潟県三条市の路上で当時9歳の少女が誘拐され、その後約9年間にわたり監禁された事件。少女は2000年1月28日に同県柏崎市の加害者宅で発見され保護された。監禁期間が約9年2カ月という長期に渡っていたことや、事件に関わる新潟県警の捜査不備や不祥事が次々と発覚したことなどから社会的注目を集めた。裁判は犯人の量刑に重大な影響を及ぼす併合罪の解釈を巡り最高裁まで争われ、2003年7月に懲役14年の刑が確定している。また、犯人が長期の引きこもり状態にあったことから、同様の状態にあった男が数カ月後に起こした西鉄バスジャック事件と共に、引きこもり問題の社会的認知度を大きく高めた事件ともなった。

 

www.sankei.com

 

加害者の小島被告は、刑務所に入るのが夢と語り、更に、3人殺したら死刑になるから2人殺そうと思ったなどと、常軌を逸した発言をしている。

結果、男女三人が殺傷された。

 

 

ja.wikipedia.org

 

熊谷6人連続殺人事件(くまがや ろくにんれんぞくさつじんじけん)とは、2015年平成27年)9月14日9月16日の計2日にかけて埼玉県熊谷市で発生した連続殺人事件。所轄の埼玉県警察熊谷警察署から脱走して小学生女児2人を含む市民の男女6名を相次いで殺害した加害者の男(事件当時30歳・ペルー人)は「ペルー史上最悪の連続殺人犯」ペドロ・パブロ・ナカダ・ルデニャ実弟だった[1]

 

この事件は、死刑判決が出ていたが、最近になって死刑は破棄され、無期懲役の判決に変わった。

 

www.jiji.com

 

 被害者は、行き場のない怒りを胸にこれから生きていかなければならない。

 

 

ja.wikipedia.org

 

女子高生コンクリート詰め殺人事件(じょしこうせいコンクリートづめさつじんじけん)は、1988年昭和63年)11月から1989年(昭和64年)1月の間に発生した猥褻略取誘拐監禁強姦暴行殺人死体遺棄事件の通称である。

1988年11月25日夕方に埼玉県三郷市内の路上で被害者女子高生(事件当時17歳)が不良少年グループに拉致され、約40日間にわたってグループのたまり場だった東京都足立区綾瀬の加害者宅に監禁されて暴行・強姦を受け続け、1989年(昭和64年)1月4日に加害者グループから集団リンチを受けて死亡、遺体をコンクリート詰めにされて東京都江東区内の東京湾埋立地に遺棄された[判決 1]。1989年(平成元年)3月以降、別の強姦事件で逮捕された加害者少年らが事件を自供したためにその全容が判明した[新聞 3][新聞 4]

刑事裁判における事件番号は第一審・東京地方裁判所では平成1年(合わ)第72号[判決 1]控訴審東京高等裁判所では平成2年(う)第1058号である[判決 2]

本事件は非常に残忍・凶悪な少年犯罪として日本社会に大きな衝撃を与え、加害者少年宅に被害者少女が長期間監禁されていたにも拘らず、その加害者の両親も含めて少女の命を救えなかった点に激しい非難・疑問の声が上がった[新聞 5]

 

 

www.youtube.com

 

 この事件は、日本の歴史においても一位二位を争うような凄惨な事件で、更に、この事件を起こした当時少年だった人間は、振り込め詐欺などを犯して捕まっている。

当時少年だったため、少年法が適用され、結果誰も死刑にはならなかった。

 

 

ja.wikipedia.org

 

 

広島少女集団暴行殺害事件ひろしま しょうじょしゅうだんぼうこうさつがいじけん)とは、広島市専修学校の女子生徒が2013年6月28日未明に少年少女ら7人に暴行された末に殺害、遺棄された事件。「広島LINE事件」、「広島呉少女殺人事件」とも呼ばれる。

 

ja.wikipedia.org

 

北九州監禁殺人事件(きたきゅうしゅうかんきんさつじんじけん)は、2002年平成14年)3月以降に[1][2][3][4]福岡県北九州市小倉北区で発覚した監禁連続殺人事件。

 

など、様々な事件が日本でも起こっている。

 

matome.naver.jp

 

何が言いたかったか

 

日本は治安が良いとか、なんとか言っているけども、こうして凄惨な事件は起こり続けているし、それはどうしようもないことかもしれないけども、それを受け入れずに理想論ばかり語っている人間がいることが悲しい。

 

死刑反対にしても、加害者保護の観点なんて以ての外で、法を犯している時点で法を遵守している人間とは一線を画した評価を下して然るべきなのに、同一視しているのが意味が分からない。

 

今はLGBTなんかが話題になって、少数派だった人たちが認められつつある。

 

これは非常に良い時代の流れだなと思うけども、そうした少数派の意見を尊重するということにおいても、善悪の価値基準を設けないと、大変なことになるという事。

 

美しい理想の実現は、結局実現ということを目標にするのだから、具体的で現実的でなければならない。

 

理想が理想足るは、現実とかけ離れていることが根拠の一つとなると思われるが、そうした理想と現実のギャップを考えずに実装が行われると大きな亀裂や軋轢が生まれる。

 

現実は残酷で、何が起こるか分からない。

 

きっとこうだから、こうなんだからと、希望的観測を重ねていくと、結局は悲観的観測との多きな隔たりが生まれるのは当たり前なのだ。

 

希望的観測や理想を語るのは悪いことではないが、悲観的観測や現実を考慮しないと、それは白痴が語る夢物語と相違ないのではなかろうか。

 

「銀杏はなんて悲観的なんだ、冷たい。もっと人間は素晴らしい生き物だぞ。」

 

なんて言う人もいるかもしれない。

 

でも、わっし含め、人間は誰一人として同じ思考回路は持ち合わせていない。

 

だから、人間とひとくくりにして希望的観測をするのは、前提から破綻している。

 

ひどく悲観的に、これでもかというくらい期待しないのが、現実的というものなのです。

 

悲しいけれど、そういうモノだ。

 

だから、わっしは言いたかったのは、

 

「死刑反対なんていう綺麗な思想は結構だが、少し悲観的にものを一度考えてすり合わせないと、理想の上限的予想と悲観の下限的予想が起こり得たとすると、そのギャップを埋められるだけの論理を考えないといけないことになる、ということ。

 

そして、そんな論理はあり得ないのだから、結局希望か悲観どちらで予測するのが良いかといえば、悲観的な予測が一番損害が少ない。となるのではないか。

 

ならば、加害者が更生するという希望的観測を捨て、悲観的観測の下、更生の余地なしとして殺すのが良さそうだとならないだろうか。」

 

ということです。

 

誰かの意見が正しいというのは簡単ですが、自分はこう思うという意見を持つのは割と難しいです。

 

これに関して、わっしの意見を読んで、いやいや、こうだろうという意見が色々生まれる事が何より望んだ形なので、ぜひ考えてみてください。

 

_______________                      

 

今回はこれで終わりです。また次回。

 

 よければ他の記事も読んで行ってくださいまし。

 

 

 

www.ittyou-ichou-iroiroblog.work

www.ittyou-ichou-iroiroblog.work

www.ittyou-ichou-iroiroblog.work

www.ittyou-ichou-iroiroblog.work