銀杏の徒銷な備忘録

御勧め、趣味、考察などをだらだら書いてます。何かの役に立ちますように。。

寿司職人・ラーメン職人の修行不要説を通して付加価値について考えてみた。

どもです。銀杏です。

 

もう冬ですね。寒いです。

 

手も悴めば、マフラーも巻くし、葉の色も変わってきました。

 

季節の変わり目とインフルエンザの脅威。

 

体調管理には気を付けましょう。

 

寿司職人・ラーメン職人などの長期修行不要説

 

今回話して行くのは、職人における長期修行は不要なのではないかという説を通して、付加価値というものについて考えてみましょう。

 

ちょっとまた話題が遅いといえば遅いのですが、こうした議論が時々引き合いに出されたりしますよね。

 

これらの発言をした のは皆さんご存知かと思われます、堀江貴文氏です。

 

彼はこういいます。

 

「寿司職人が何年も修行するのはバカ」

 

「ラーメンも長い修行いらない」

 

これらの発言は勿論彼なりに根拠のある内容なのでしょうが、文字面だけみて行間を読まない人たちの批判の対象になりました。

 

では、なぜこのような発言をしたのか?

 

それは、長い修行、米焚き3年握り8年といわれるような10年にも及ぶ修行が果たして本当に必要なのか?

 

いいやそうは思わない。もっと効率的に修行すればその期間を短縮して、同じ味を出せるようになるだろう。

 

ということなんだと思います。

 

このような考え方の下で修業の効率化を図っていけば、寿司職人のハードルが下がり、人件費が下がって、安くうまい寿司を提供できるようになるのは間違いないでしょう。

 

これが正しいのかどうかは観点にもよりますが、経営的な視点、あるいは、より多くの人に美味しいものを安く提供できるという視点でみれば正しいといえますね。

 

最終的に機械ですべて出来るのなら、「おっさんが握った寿司なんて食べたくない!」なんていうマイノリティの要望にも応えられるでしょう。

 

さて、この職人修行不要説のスタンスを仮定したところで、次に参りましょう。

 

 長年修行した職人の価値は低減するか?

 

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問題はこれなのかな、と個人的には思いました。

 

結局、多くの人にとって美味くて安いならメリットだと思います。

 

一貫500円とか1000円の寿司を、200円くらいで食べられるようになったとなれば、人は殺到するでしょう。

 

100円の回転すしができたときなんて、人は大殺到していたはずです。

 

ファミレスなんかも、シェフではなく、工場で冷凍したものを解凍する作業を主とすることで、人件費の削減を行っています。

 

しかし、付加価値という点において、回転すしで食べる100円の寿司と、高級すし店、所謂回らない寿司屋さんで食べる500円の寿司は、味の感じ方が変わるのだと思います。

 

視覚的な価値・バックグラウンドの情報(事前情報)

 

視覚的に高級感を醸し出している、佇まいに他にはないこだわりを感じさせている、~が絶賛しているなど、そうした一見味には関係ない事柄も、支払う値段に対して納得の可否は関わってきます。

 

つまりは、回転すしのテーブルで回ってきた寿司を口に運ぶまでのプロセスと、高級すし店において目の前で職人の手によって食材が切り分けられ、または締められ、捌かれ、シャリを取って洗練された手さばきで握る。

 

事前にこの店は高い。と分かって入って来ているとする。

 

確かに店の佇まいも良い。空気、客層、香りもそこらの寿司屋とは違う。

 

リラックスできる。あるいは背筋が伸びるような空間。

 

そんな普段とは違う空間の中で、目の前で見せつけられた熟練の技術によって完成された握りたての寿司が目の前に置かれる。

 

それを経て、最後に「塩だけで」なんて言われて口へ運ぶのでは、受け取る情報ベクトルも量も桁違いだろう。

 

 

寿司そのものではなく、その口に運ぶまでのプロセスにおいての付加価値が、高額な料金設定を是としているのだろう。

 

もしあなたがお金をある程度持っていて、身なりも整えて、いい車に乗っているとするならば、わざわざ寿司を食べに回転ずしに入るだろうか?

 

あるいは、機械のみで稼働している、味だけで雰囲気も佇まいもない(この場合寧ろ先進的な雰囲気は在るかもしれないが)店に足を運ぶだろうか。

 

勿論、後者においてはターゲットが設定され、「安く美味しい」と「高く美味しい」に二分されるとは思うが、基本的に人件費が浮くなら、価格設定は低くなる。

 

そうなれば客層は子連れが増えるかもしれない。

 

静かに食べられないかもしれない。

 

あなたは、味のみで選択しますか?

 

これは両極端な話ですが、実際に起こりうる問題であると思いませんか?

 

割と人間は目的だけにお金を払わない

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 皆さんは、服を選ぶとき、機能性と見た目のどちらを加味しますか?

 

また、ブランドなんかも気にしたりするでしょうか?

 

服を着る根本の目的は防寒・特定の体表を覆い隠すことが目的だと思います。

 

特定の部位を見せたら犯罪になったりもしますから、それが根源的なものであるかもしれません。

 

しかし、大抵の人は服を買うときそんなことを考えませんよね。

 

どんなのが流行っているか。

 

暖かいか、涼しいか

 

世間的にこの服を着ているとどう感じられるか。

 

一人称的な価値観と、三人称的な価値観があるかと思われます。

 

こうした色々な付加価値が積み重なって、1000円の暖かいけども好みじゃなかったり、ダサかったり、流行っていなかったり。

 

そうしたものより、2500円の少し寒いけども好み、おしゃれ、流行っているものを選ぶときの差額とその本質的な価値との差の開きこそが付加価値の正体と言えます。

 

ならば、人の購買意欲には、本質的な価値、価値観(食べる・隠す・価格・機能など)などの一時的な評価基準も関わるが、今のような選択枝の多い場合においては、付加価値(形・第三者意見・情報・味・雰囲気など)などの二次的・三次的な評価基準において判断する場合が多いと言えるのではないだろうか。

 

食べることが目的、味が良ければ良いな、雰囲気も良かったら尚良し。

 

その求める基準は目的+付加価値で、価格によってオプション(付加価値)を購買することを否定できないのではないかなと思います。

 

だからなんだ? 話が逸れていないか?

 

ふむふむ。ではまとめてみましょう。

 

職人の修行は不要で、オートメーションによる人件費削減が正解なのか

 

最初に述べたように、もし長年の修行が絶対的に不要で、オートメーション(自動化)による味のみを求めた最高効率モデルが果たして最適解なのか否か。

 

ここまで読み進めたあなたは、一つの答えを得ているはずです。

 

私は~だ。 僕は~だと思う。

 

などなど、読み進めているうちに考えたはず。それも一つの答えです。

 

良かったらコメントでどんな考えに至ったのか教えてほしいです。

 

では、わっしの答えを述べさせていただきます。

 

白黒の両極端な二分論は今の時代適していない

 

オートメーションによる作業の効率化によって、価格の低減が起こり、より多くの人に安く美味しいものを届けたり、安く機能性の高いものを届けたりすることは、とてもいいことであります。

 

しかし、修行などのプロセスが不必要なわけでは無く、寧ろそうした時代において経験という付加価値こそが差別化を図れる一つのカギなのではないかと思います。

 

効率や生産性だけが正解ではないとわっしは思うのです。

 

人間味、文化、伝統。

 

人間は非効率なものにも価値を見出します。

 

木造の寺よりも、鉄筋コンクリートで作った寺のほうが丈夫かもしれませんが、そんなところに厳かだとか、神聖であるとかいう印象は抱かないと思います。

 

かといって、過剰に長い修行が正しいとも思えません。

 

無駄があるのなら省くべきでしょう。

 

なので、なにもかも白黒では決められない。

 

それぞれの視点と思想に則ってやればいい。

 

価格や味(機能)は、購買を決定することにおいて必要条件となりうるが、十分条件になるとは言い切れない。

 

なので、修行がすべて不要ではないが、しかし無駄はなくすに越したことはない。

 

わっしの結論はこうなりました。

 

皆さんは、こうした議論について、白か黒の視点ではなく、赤や青の視点を持ったりしますか?

 

今回はこれで終わりです。

 

またお会いしましょう。

 

 

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